※このブログは、ご縁つなぎのコピーライターたちばなみかんが【6年以上に渡り、氣づきのメッセージを毎日メルマガ発行すること】を通して、成長していく軌跡を綴った【スピリチュアル&自己啓発ブログ】です。
6年間に渡る【氣付きのメッセージ】は、あなたの人生に【安心】を招き、運勢をうなぎ上りさせると確信しています。
そして、このブログを総て見ていただければ、【継続して何かを続けると、人間はどのような成長を遂げていくのか?】を端的に知ることができますと思います。
【私のありのまま】を泥臭く記し続けました。
6年間もの間、メルマガ発行を継続して続けることによって、どのように【心的にも】【ライティングテクニック的にも】【魂的にも】成長していくのか?
どうぞお楽しみください。
2015年
NO、719「ば」
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(たっちん:大谷幸三さんがダライ・ラマに取材する際、インドの山奥に行った時に感じたこと。)
このように取材の機会を待ち続けている間に、もうひとつの発見もあった。
それは待ち続けることも仏教の修行のひとつだということだ。
同時に、草木もろくに生えない高地に住む人々を見るうち、そこに住むことすら修行のひとつではないかと思えてきた。
高地に住む人々は、結果として肉食わしない。
動物を飼育する穀物が潤沢に生育しないからだ。
山羊は乳製品を取るための貴重な家畜である。
高地では、そうした食糧事情から人口も増えないし、減らない。
そして、毎年繰り返される同じ風景。
雪解け水が激流となり道路や橋を押し流していく。
それは同じような風景でありながら、毎年違うのだ。
ヒマラヤの雄大な風景がチベット密教をはぐくんできた。
月や星を映し出す清澄な夜空。
普段ウェットな日本に住んでいるものとしては、月も星もまったく別のものに見えた。
そういった環境の中に、限られた時間とはいえ生かされたことによって、私にすら哲学的な発想が芽生えた。
乾いた土地、物が豊かではない土地に住んでこそ、仏教的宇宙観に思いを巡らせられるのではないか。
個人的な意見だが、般若心経を百万回唱えるよりも、現地の風景を見るほうが、内容と理解できるかもしれない。
いや、少なくとも体感できるような気がする。
(「ダライ・ラマが語る般若心経」文:大谷幸三より引用)
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昔、読んだ本の中にもこんなことがありました。
「その土地の風土が、その土地の人々の民族性を形作る。」と。
「場」には、人間の想像を超えるエネルギーが宿ってる。
いろんな「場」に触れよう。
「場」と語り合おー。
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てなわけで、ソウルメイトさん、スペインのエネルギーを貰ってきて、ぼくにも分けてくださぁーい★
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今日もありがとうございました!
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